「セル――断片的な回想」 ルイス・レーン

「私は教師ではない。もし君が、指揮者になるために知るべきことを、自ら見て、聴いて学べるほど聡明でないのなら……」セル氏は言った。「もはや君はここにいるべきでないな」


大戦後の夏。私はパットン(将軍)の第3軍で砲兵として陸軍の最後の数か月を勤めあげ、3年の兵役を終えたところだった。自分ではそこそこ熟達した作曲家であると考えていたし、実際、それを証明する学位も持っていたが、望むような仕事を見つけることができずにいた。なんのあてもなくなりかけていた。私は、国中のカレッジのどのひとつとして、私の作曲家としての才能を認めるだけの機知を持ち合わせていないことに呆然としていた。はっきり言って、この私に仕事を提供しないとは、皆が皆、呆れるほど見識を欠いているのではないか、と。

が、1946年夏のある日、私はたまたま、クリーヴランドオーケストラとその新任の音楽監督ジョージ・セルが、指揮者の研修プログラムを提供すると公示しているのを知った。その時の私は、指揮者になることに何の興味もなかったが――大学のあるクラスで指揮をした経験があるだけで、それはおふざけに終始していた――私には仕事が必要だったし、クリーヴランドのプログラムを1年間だけやってみるのも面白いように思えた。私のライフワークである作曲に実際に取りかかれるようになるまで、そこで何かしらのことが成せるのではないかと考えたのだった。

そのプログラムに参加するための必要条件のひとつが、セルの面前でのオーディションだった。オーディションでは、志願者はモーツアルトかベートーヴェン、またはブラームスのどれかひとつの交響曲から第一楽章を選び、完全に暗記したうえ、通しでその作品を振らなくてはならなかった。もちろんオーケストラ抜きで、指揮している主パートを自ら口笛で吹くか、または歌うのである。

指揮の技術は案外とシンプルだから、アンサンブルをまずまずに保ちながら拍子をとるようなことは、基礎訓練を積んだ音楽家ならほとんど誰にでもできてしまう。その先になると、作曲家というものに関わる多くの事柄が――たとえば正しい効果を得るための正しい管弦楽法を見つけることなど――おそらくは指揮者になるためになし得るもっとも完全な訓練を与えてくれるのだが。実際に私にチャンスがあろうとは思えなかった――希望のないことが、不安のほとんどを拭い去ってくれていた。

それでもなお、私はベートーヴェンやブラームスの交響曲の複雑さに立ち向かうつもりはなかった。音楽史学者しか知らないようなモーツアルトの初期交響曲があり、ちょっとした幸運によって、セル氏が知らない1曲を私が選ぶ可能性だってある。私はとても魅力的なモーツアルトの「交響曲第28番ハ長調」を見つけた――そして、より重要なことは、おそらくセル氏はこの曲を知らないはずだというそれなりの確信を私が感じとっていたことだ。で、私はこの曲を勉強した。実際、十分すぎるほど勉強したのである。

1946年の秋、ついにオーディションでセルの前に立つ日が来た。彼の第一印象は、私が彼のことをほとんど知らないという事実によって左右され、それゆえ、後年私が彼について知ったことをそのときに知っていれば受けたであろう感銘にはとうてい及ぶものではなかった。この人物は、自分がやろうとしていることを完全にわきまえていると感じたのは覚えている。しかし、それは予期されたことであった。なんといってもセルは当時50歳にさしかかっていたのだし、偉大なオーケストラとはいえないにせよ、事実、非常によいオーケストラの音楽監督であったわけだから。

のちに私は知ったのだが、セルは神童であり、わずか11歳のときにウィーンで公開のピアノリサイタルを開き、15歳になるまでには、ソロイストとしてヨーロッパの名だたるオーケストラの数々と共演している。彼はまた、若くして指揮をはじめている。最初にベルリンフィルを指揮したのはたった16歳のときである。セルの後見人はリヒャルト・シュトラウスであった。若くしてセルは作曲家としてのいくばくかの名声を得、いくつかの作品は、第一次大戦前後に演奏された。

だが、私が彼と出会ったときには、彼が作曲をやめてから長い時間が経っていたのだし、実際のところ、彼の作品の演奏をすることは誰にも許されなかった。彼は言ったものだ。「あれはもはや私をあらわすものじゃない。現在の私は違うのだから」私がクリーヴランドオーケストラに加わった数年後、たまたま彼の作品「叙情序曲、作品5」を見つけ、まるごと暗記してしまうことを自分に課した。団員の1人と私がセルのディナーに招かれたときのこと。食後、セルがわれわれに向き直って尋ねた。「さてと、われわれの来年のプログラムでは、どの序曲を演奏すべきだと思うかね」そこで私は、その場で可能なかぎりの無邪気さを装って言った。「私が考えている作品はたぶんあなたの考慮の外でしょうが、私はその曲をあなたが演奏なさるのをとても楽しみにしているんです」セルは私の誘いに乗った。彼は訊いた。「なんだね、それは?」私は言った。「あなたのために、少しだけ演奏してみましょうか」

私はピアノのところに行き、弾きはじめた。雷に打たれたような、あんな表情がセルの顔に浮かぶのを見たのは、これがはじめてだった。「どこでそれを覚えたんだ?」セルは吠えかかった。かわいそうなセル夫人は、何が起こっているのかわからずにいた。彼女はこの作品を聴いたことがなかったのだ。存在すら知らなかった。セルはその晩の残り中ずっと苛立ち、私に怒ってばかりいた。数日後にセルはようやく、彼の呼ぶところの「若気の至り」を私が掘り起こしたことを、赦してくれた。

セルの作曲家としての仕事の大半は、彼がクリーヴランドにやって来た時点でとっくに忘れられていた。実のところ、私が出会ったころ、一般の音楽愛好家に関するかぎり、セルはまだまったく知られていなかった。もちろん、音楽家の間では抜き出でた評価を得ており、第二次世界大戦の間、セルはニューヨークのメトロポリタン歌劇場でいくつか目覚ましい指揮をしている。私が最初に会ったとき、セルは大半のアメリカ人にとってまだ無名の存在だったし、まったくのところ、クリーヴランドの外で本当に有名になったのはずっと後、1950年代後半か1960年代になってからのことである。

最初に出会った時点で、私はセルのバックグランドについては比較的わずかなことしか知らなかった。そして、彼に対する私の印象はかなり限られたものであった。憶えているのは、彼が肉体的に大きな人間で、見るからに非常に精力的であったことだ。なにか不調和な印象を受けるのは、彼がひどい近視で、とても分厚い眼鏡を付けていたからだ。私はこれがむしろプロフェッショナルな外観を彼に与えていると、考えたことを憶えている。

それで、最初の日のことだが、セルのために、私は例の指揮動作のすべてを通しでやった――もちろん、とてもぎこちなく――セルはときどき止め、こう言ったものである。「君はいま第1バイオリンのパートを口笛で吹いていたが、そのとき第2バイオリンは何をしているのかね」しかし私のほうも、この作品を十分に頭に叩きこんできたから、セルに答えることができた。彼を感心させたようだった。

全部が終わってから、セルは言った。「この特殊な交響曲を選んだのはどういうわけだね?」私は言った。「そうですね、これはモーツアルトの交響曲ですから、あなたのオーディション条件を満たします。そして、あまり知られていないから、あなたはこの曲をそれほどよく知らないに違いないと考えたんです。私にとって、よいチャンスではないかと」

彼はちょっと面白がっていた。私がとても賢いことをしたと考えたようだ。こう言った。「君は完全に正しいよ。私はこの曲を指揮したことは一度もないんだ」

しかし私はオーディションには落ちた。セル氏は非常に温かく接してくれたが、彼が私の能力を真剣に考慮してくれていたとは知らなかった。彼は私に指揮の経験のないことを指摘する一方で、同様に、うち棄てさせなければならない悪習が身に付いていないという、よい面もあると話してくれた。

オーディション後、私は1年間、ロチェスターのイーストマン音楽学校で学んだ。3月に、驚いたことに、クリーヴランドオーケストラの支配人から電話がかかってきた。セル氏は翌月に見習い指揮者のオーディションをおこなう予定だが、私に、戻ってもう一度オーディションを受けるよう望んでいるのだという。私はクリーヴランドに舞い戻った。今回は前年よりも多くの志願者がいた。私が選ばれた。こうして1947年の秋にセル氏との付き合いがはじまり、彼の死まで続いた。

セル氏とクリーヴランドオーケストラとの1年目で、私はまったく打ちのめされた。私は本当に無知だった。自分に扱えるか扱えないかの見きわめもつかないほど、音楽について知らなかった。2年目、私は4倍も5倍も勉強した。私がはじめてオーケストラに来たとき、セル氏はこう話した。「私は教師ではない。どんなレッスンもするつもりはない」それはまったく本当だった。彼からレッスンを受けたことは決してなかった。セルは言った。「もし君が、指揮者になるために知るべきことを、自ら見て、聴いて学べるほど聡明でないのなら、もはや君はここにいるべきでないな」

セルは非常に明確だった――言葉で表現することができた。もしあなたが具体的な質問をしたなら、彼が答えを拒むことはありえない。だが、彼のほうからやって来て、「こうするべきだ」などと言うことは決してない。結局、私を教えてくれたのは、クリーヴランドオーケストラだった。毎回毎回のリハーサルに参加することが、素晴らしい教育だった。オーケストラの音が耳を充たし、オーケストラに何ができるかを知り、何をおこなうのが難しく、何をおこなうのが易しいかを知る。こうしたことのすべてが、多くの言葉を要さずに学べるのだ。セルは厳格なカペルマイスター、厳しい監督者、ほとんど軍隊式という評判を得ていた――しかし彼自身、自分がそのようなやり方をしていると見なしてはいなかったろう。彼は単に、正しいと思うことのすべてをやろうと望んだにすぎない。彼は人々に、なすべきことをなすように期待したのである。いつだって、だ。とくに難しいのは、人々にセルとは同僚にはなれないのだとわからせることだった。そうなれば、彼は同僚に対するよりも自分に対してより多くを要求するからだった。彼は他の誰かのミスより、自分の犯したささいなミスに大きく動揺する。われわれの初期の年だった、セルはケルビーニの「アリババ」序曲を指揮していた。彼は休止をひとつ忘れ、オーケストラのあるパートは彼とともに進み、残りのパートはそうならなかった。事態が解決されるまで数分かかった。これは、セルに演奏会を続けさせるか否かの問題にまで発展した。セルはこの件にいたく動揺した。極度に動揺したのだ。何週間も。

実のところセルの怒りは、そうしばしば見られたわけではない。彼が怒るのは、通常、音楽上の理由に限られていた。リズミックなパッセージ上で8分音符が正しい位置に置かれなかったからといって、セルは恐ろしいほど腹を立て、オーケストラの誰かを感情的に責めたてるのだった。私はある出来事を鮮明に思い出すことができる。セルと個人的にもっとも親しい関係にあった奏者が、セルの見解によれば、8分音符をフレーズ上の適正な位置に置かなかった。セルはオーケストラを止め、その奏者のほうを指さして言った。「違う! 違う! 君の音が遅れている。遅れているんだ!」二度、三度とこれが繰り返され、奏者はようやくセルの望むように修正した。

それでもなお、2人ともひどく困惑していた。なんといっても友人同士であったから。リハーサルが終わると、その奏者はセルのオフィスに入っていった。彼の言葉が聞きとれた。「ジョージ、ジョージ、君はたったひとつの8分音符で騒ぎ立てるのか? 8分音符がわれわれの友情をかけるに値するとでも?」セルの大声が、ものすごい大声が、閉ざされたドア越しに聞こえてきた。「私の音楽に関することであれば、まったくそのとおりだ」これはセルのものの見方をとてもよく示している。友情は友情であり、友人を持つことは素晴らしい。しかし8分音符はもっと大事なのである。

クリーヴランドオーケストラに対するセルの姿勢は、父親や所有者のそれであった。そして、とりわけ若い奏者に対しては、夫人や子供のことまで気づかっていた。1940年代後半から1960年代いっぱいのほぼ20年間にわたってセルは、クリーヴランドオーケストラとそのメンバーに対して、きわめて強い一体感を抱いていたのだ。

とはいえ、どんなオーケストラでも指揮者と楽団員との関係、とくに首席奏者との関係は、いくばくかの緊張をはらんでいる。そうでないことのほうが珍しい。もしあなたが指揮者なら、リハーサルの前には、その曲について知り尽くし、すべてを思い通りに進める方法もよくわかった、と感じられるまで、スコアをよく下調べする。が、あるとき、真に天分に恵まれた奏者があらわれ、あなたが頭に思い描いたものとは完全に違うふうに、あるパッセージを奏するかもしれない。にもかかわらず、ある意味でそれは、あなたの考えよりも歴然と素晴らしいものであるとする。もちろん、こうした状況でセルがなすことは、他の知的で鋭敏な指揮者と同じである。自らの解釈を奏者に寄り添わせるのだ。

セル氏はまた、オーケストラに一定の緊張感をつくりだす。まさしく楽団員全員が、セルは最高のものを求めていると知っているからだ。たいてい、セルとのどの演奏会やリハーサルでも、楽団員全員は、安楽な人生にはない緊張を味わっていた。だがそれは同時に、絶えざる励ましでもあったのだ。

もちろん、セル氏がずっとリラックスし、目立ってくつろいでいるときもあった。とくに彼が他のオーケストラの指揮から帰ってきたときがそうだった。そういうときの彼は、いつも以上にクリーヴランドオーケストラのよさを認め、はるかに穏やかであった。が、セルが、クリーヴランドオーケストラの状態を聴きわけ、彼が求めるよい演奏との差や、彼が受け入れがたい凡庸な演奏に気づくのは確実だから、なお楽団員たちは気を抜けなかった。不安を感じている者にセルは緊張を強いた。なかには不安を抱く理由がないのに、そうなる者もいた。不幸なことではあったが、しかしそれは、セル氏のもとでクリーヴランドオーケストラを特徴づけていた音楽に対する絶対的な注意力と集中心に寄与していたのだった。

私がクリーヴランドオーケストラに加わったときには、メンバーの大半より若かった。だが面白いことに、のちになると、私が准指揮者になった後だが、楽団員たちにとっては、非公式なかたちでセルと接するために私のところにやってくるのが、きわめてありふれたことになっていた。多くの楽団員は、なかには幾人かのもっとも才能豊かな者もいたのだが、セルの前、ことに彼のオフィスでは楽に息がつけなかった。彼らにとっては、ステージの上のほうがまだましだった。しかし、なぜかセル氏のオフィスのような小さな部屋では、彼の個性に圧倒されてしまうのだった。彼の個人的な支配力が部屋を満たしているような印象を与えた。何人かの楽団員は彼と話すことさえ恐れた。実際、セル氏の音楽性に対する熱狂的な信者だった数人の楽団員は、彼と口をきくことができなかった。

しかし、どういうわけか、セル氏はいつも私にはよくしてくれた。私の知るかぎり、彼は決して私に対して怒ることはなかった。もしかしたらそれは、クリーヴランドに最初にやってきたころの私が、ちゃんとした反対意見を持つほどの音楽的知識がなかったことに起因するのかもしれない。また、はじめてクリーヴランドに来たとき私が彼から十分強い印象を受けなかったことや、私が確信を持っている事実関係では、セル氏に異論を差しはさむのに決して躊躇しなかったことも、私の助けになっていたに違いない。

意識するにせよ、せざるにせよ、私が彼から巨大な影響を受けたのは間違いない。そして音楽と音楽家たちに対する私の姿勢には、おそらくセルの姿勢が反映している。しかし、私はいかなる意味でも、他の誰かに代わる父親像を彼に感じたことはない。私は一定の範囲では、彼の助言を求めた。しかしそれは、信頼できる年長の同僚としてのそれであって、他の何かではありえなかった。彼は、世界でも最高水準の音楽づくりが経験できる場所をクリーヴランドに築きあげたと、非常に強く感じていた。そのせいか、彼には他の人々のためになるさまざまな体験を軽んじるきらいがあった。私は二度か三度、ほかの場所でプロとしてではないことをするために招かれた。セルは私に対して、そんなことに自分はいかなる意味も見いだせないと話したのだった。

たぶんそれは間違いだった。それらの機会はおそらく、この地で私が経験していた高い芸術的水準に達していないかったのかもしれない。しかし、音楽世界と音楽の仕事に対する私の視野を広げてくれたと思う。しかし、もし私がクリーヴランドに長くとどまりすぎたのだとしたら、それは私自身の責任である。いまでも私はそのことを悔いてはいない。私のキャリアのためには、10年前にクリーヴランドを去っていたほうが好ましかったのかもしれない。しかし、私はとくに出世志向だったわけではなかった。

1940年代後半から1950年代前半にかけて、セル氏はクリーヴランドオーケストラをつくるために猛烈に働いていたのではあるが、ニューヨークフィルまたはボストンシンフォニーから音楽監督のオファーがあれば受け入れただろう。そのことに私は疑いを抱いていない。事実、おそらくは自らがその音楽監督に就任することを望んで、セル氏は1954年に、ルドルフ・ビングをニューヨーク・メトロポリタン歌劇場総支配人の地位から追い出すための、不首尾に終わった骨折りをおこなったのである。

第二次大戦の間、セル氏はとくにドイツ系のレパートリーにおいて、メトの主要な指揮者としての地位を築きあげていた。1950年にビングがメトを引き継いだとき、ビングの抱える問題のひとつは、多くの素晴らしい歌手を擁していたにもかかわらず、指揮者のリストがかなり手薄になっていたことだった。ある者は年老いていたし、ある者は亡くなっていた。また、政治的な状況は、大戦時にドイツで働いていた人間の採用を許さなかった。ビングとセル氏はまったく友好的な関係になかったのだが、ビングはメトで指揮するようセル氏を招聘した。セル氏は――ビングは魅力的で才能豊かなアマチュアではあるが、真のプロフェッショナルではないとつねづね感じていた――1954年のシーズンに、新しいプロダクションで、ワグナーの「タンホイザー」を指揮することに合意した。配役に全権をふるうという条件で。折悪しく、ビングはセル氏の承認なしに配役を変更せざるをえない状況になった。あげくのはて、スケジュールの4分の3を消化したところで、舞台は崩壊した。セル氏は続けるのを拒否し、かくして世を賑わす音楽上の事件へと発展する。それは新聞紙面での戦いとなり、セル氏とビング氏の私信でも戦い抜かれた。セル氏がこの事件を、ビング追い落としキャンペーンの口火を切るのに用いたのだと、私は信じている。

このエピソードの後まで、セル氏が、クリーヴランドオーケストラの育成を自らの最終目標にするつもりがなかったのは間違いない。最終的にビング氏がメトにとどまることが明らかになったとき、セル氏は決断したのだ――たぶん即座にではなく、徐々に――彼のクリーヴランドオーケストラが、東部のどの上級オーケストラよりも高い声望を集める音楽団体になるべきだと。

セル氏が関心を持ち、セルのもとでクリーヴランドオーケストラのトレードマークともなったものは、作曲家が自らの作品に望んだ音はいかなるものかというセルの洞察を、最大限に表現した演奏であった。この点に関して、彼はまったくエゴを欠いていた。彼はジョージ・セル=サウンドのオーケストラなどというものには興味がなかった。彼が関心を抱いていたのは、ベートーヴェンのそれぞれの作品が、完全なるベートーヴェンの本質をもって鳴り響くことであり、モーツアルトのそれぞの作品が、完全なるモーツアルトの本質をもって鳴り響くことであった。

また、セル氏は自らの仕事が評価されることを望んでいた。評価を獲得するためのひとつの重要なステップが、クリーヴランドオーケストラの1957年ヨーロッパツアーだった。もうひとつの重要なステップは翌年に開始されたレコード録音だった。1965年の2度目のヨーロッパツアーも同様に重要だった。その間に、クリーヴランドオーケストラは2回のアメリカ大陸横断ツアーをおこない、全米に登場した。15年間の尽力の後、1963年にクリーヴランドオーケストラは、「タイム」誌のカバーストーリーで特集された。有名になったのだ。

だが、いったん実現しまえば、それもセル氏にとってはさほど大切な問題ではなくなった。彼は出演の招請を辞退するようになった。その招請は、10年前であれば彼のほうが熱望して受諾しただろうが、10年前には提供されなかったものである。最後の数年に彼が指揮を引き受けたのは、この国ではシカゴとニューヨーク、そしてヨーロッパの主要オーケストラだった。

そうして、クリーヴランドオーケストラが彼の人生の主たる関心事となってから10年以上が経って――死の前の3、4年間のことだが――セルは徐々にクリーヴランドオーケストラから離れはじめていた。また、この国の生活全体に失望するようになっていた。見方によっては、それはケネディ大統領の暗殺(1963年)からはじまっていたのかもしれない。しかし、クリーヴランドオーケストラ全体が本当の衝撃を受けたのは、われわれ自身が、アメリカのベトナムへの関与を1965年のソヴィエト・ツアーまで何ひとつ知らなかったことだった。ソヴィエトでは、新聞はベトナムの記事だらけだった。もしロシア語が少しでも読めるなら、一面に連日それが掲載されていた。ロシア人がわれわれに質問する政治的なことといえば、それだけだった。セル氏のなかでは、この国ではものごとが正しく伝えられていないのではないか、という確信が広がりはじめた。彼はジョンソン大統領に疑念を抱くようになった――大統領だけではなく、われわれの政府の体制全体が――論理的な人間は何をおこなうべきかという視点に立った、堅実で建設的な信念を真に反映するものではなく、人々が本当に望んでいることを真に反映しているものでもないと、感じていた。新聞を読んで彼は恐ろしいほど動揺していた。そして結局、しまいには新聞をまったく読まなくなった。

同様に忘れてならないのは、1930年代の政治的暴力によって、セル氏がヨーロッパからバラバラに引き裂かれて逃げてきたという事実である。1960年代後半にこの地で暴動やその他の騒乱が発生すると、彼は同じようなパターンの出現をそこに見るようになったのだ。私は憶えている。一度――思うに1968年のことだった――ベトナム反戦グループがセヴァランスホールの演奏会でピケを張ろうと試みた。赤ん坊がベトナムで死んでいるのに、安楽なセヴァランスホールでぜいたくな音楽などを聴いているべきではないと、彼らのパンフレットは唱えていた。セル氏はこれに悄然とした。なぜなら彼は、反戦という前提に賛同していたにもかかわらず、その表現方法に賛同できなかったからだ。彼はピケットなど信じていなかった。ベトナムでの戦争とクリーヴランドオーケストラを性急に結びつけるやり方も。彼は戦争には反対だったが、あの戦争と、彼が文明社会の最高の表現と見なしているもの――音楽である――を結びつけるのは根本的に野蛮だと考えていた。

大きな出来事が1967年の楽団員のストライキの間にあり、オーケストラの日常的な業務からセル氏を引き離した。その後、彼はオーケストラ内部の実管理を大半、私に委ねた。セル氏は依然として音楽的方針に関しては十分に手綱を握っていたのではあるが。

それ以前のクリーヴランドでの楽団交渉と比べて、1967年のストライキはいつになく辛辣なものとなった。とはいえ、最近他の場所で起こっていることから比べれば、それは誇張にすぎるというべきだろうが。交渉の間、楽団員による委員会がはじめて契約書の改訂――言外に含まれていたセル氏の権威を縮小すること、そして解雇された楽団員のための異議申し立て手続きを設けること――を要求してきた。私が思うに、これによって、セル氏の意思の最大限の力が、言うならば、クリーヴランドオーケストラから引きあげさせられることになる。彼は楽団員たちが自分のことを誤解しており、自分の意図を十分正しく認識できていないと感じた。自分がおこなうことがオーケストラの最良の利益になることを、クリーヴランドオーケストラは信じるべきだと、セル氏は感じていた。そしてこれは、議論されるべき問題ではないのだと。かくして、セル氏はどんな異議申し立て手続きにも反対した。楽団員たちの側も、それを要求することを同様に決心していた。最終的には妥協案に達した。そこでは、異議申し立てのメカニズムは、最終的な裁定者であるセル氏によって設置されることになった。であっても、この経験によって、セル氏は感情的にオーケストラから疎んじられることとなった。

セル氏とクリーヴランドオーケストラのこうした隔たりにもかかわらず、彼らはともに、以前にも増した高い演奏能力を保っていた。セル氏は歳をとったが、幸運にも、その指揮ぶりに肉体的な衰えは感じとれなかった。私が思い出せるたったひとつの彼の肉体的な病弊といえば、彼が周辺視野の喪失を訴えていたことだ。彼は非常によい健康状態にあった。めったに病気にならなかったし、病気になっても、きわめてよく養生したので、最短の時間で恢復していた。1970年には73歳にもなっていたのだが、死がセル氏に迫っている兆候はなかった。人の死すべき運命に対する彼の関心は深く、彼の敬愛する人物の死に際しては、それをあらわにした。シュトラウス、ブルーノ・ワルター、アルトゥール・シュナーベル、そしてとりわけディミトリ・ミトロプーロス。

その死にあってセルは動揺していた――彼とミトロプーロスが実際に親密な友人同士であったことはなかったが、しかしミトロプーロスという指揮者の仕事に対してセル氏は多大なる敬意を抱いていた。彼ら2人は1920年代のベルリンで若さを共有していた。セルが彼の古い同僚の死を知った日のことを思い出す。私たちはそれがどんなに大きな損失であるかを語り合っていた。セルは私に向き直って言った。ほとんど沈鬱な悲しみにとらえられて。「おお、若者よ。君に私と同じように感じられるはずがないのだよ」

セル氏は1970年5月の日本公演の間、ずっと具合が悪かった。われわれはそれを知っていたが、深刻なものだとは夢にも思わなかった。彼は非常に疲れていて、いつもよりずっと多く休む必要があった。しかしそれでも、ツアーを通して、素晴らしい演奏会を指揮したのだった。彼はクリーヴランドに戻ってすぐに入院した。発熱が続いたのに、かかりつけの医師には原因がつかめなかったからだ。病院では検査という検査が実施されたが、あまり成果はなかった。

検査を受けている間、ひどく落ちこんでしまった彼を、いかにして元気づけるか考え、6月のある日、私は彼を訪ね、モーツアルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」について彼の見解を求めた。その夏の終わりにニューヨークのレーク・ジョージで、私はこの曲を指揮することになっていた。午後の2時間か3時間を費やして、彼は「ドン・ジョバンニ」について話した。それほど長い時間を誰かのために与えるのは、以前ならきわめて異例のことだった。彼の体調はよさそうだったし、とても元気かつ皮肉たっぷりで、多くのソプラノ歌手がどういう点で音楽的に無思慮なことをおこない、多くのテナー歌手がどういうところで無思慮なことをしでかすのかを指摘した。議論もした。テンポ、アーティキュレーション――すべては音楽に関することだった。

2日後、医師たちはようやく彼の病気の原因を見つけた。そしてその日遅く、セルは心臓麻痺をおこした。すぐさま彼は病院の集中治療室に移された。私の印象では、医師たちが彼にすべてを話そうとしなかったとき、彼は、自分がとても深刻な状態にあるのだと判断したのだと思う。彼は、この時点で、あきらめたように見える。この後、彼は私たちの誰とも会おうとしなかった。7月半ばに私は、彼の病気が回復不能で、もはやそう長く生きられないことを知った。しかしなおセル夫人は、彼の体力が回復したらすぐに、スイスに連れていき、そこで夏を過ごすと話していた。本当に、医師は、病気が小康状態を迎える可能性があると示唆していたのだ。

1970年7月30日、彼の死の朝、どれほど厳しい状況に彼がいるのか、私は何も知らなかった。午後、危篤状態にあると医師が見なしていることを知った。それでも、私は彼の死がこんなに近くにまで迫っていようとは思わなかった。

その夜、クリーヴランドオーケストラはブロッサムセンターで、ピエール・ブーレーズ指揮する演奏会を開いていた。ブーレーズはセルがアメリカでのキャリアを助成した指揮者の1人である。演奏会中に、私は病院からの電話を受けた。聴衆が去ってから、われわれはオーケストラを呼び集め、ジョージ・セルが亡くなったと話した。

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